ミュージカル映画史

ミュージカル映画史10〜00年代のミュージカル映画〜

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ミュージカル映画史10〜00年代のミュージカル映画〜

 

2000年代に入り、立て続けにブロードウェイミュージカル原作の映画が製作されるようになる。2001年の「ムーラン・ルージュ」、2002年の「シカゴ」、2005年の「RENT/レント」、同じく2005年の「プロデューサーズ」、2006年の「ドリーム・ガールズ」2007年の「スウィーニー・トッド」2008年の「マンマ・ミーア」、2009年の「NINE」と、代表作をあげただけでもこれだけある。

80年代90年代にほとんどと言っていいほどミュージカル映画が製作されなかったことを考えるとゼロ年代に入ってミュージカル映画が息を吹き返したとも言えなくもない。いったいなぜこんな事態になったのか。

ミュージカル映画を扱った本などをみると、気鋭の監督がこの分野に進出したからだとか、急に歌劇に入る昔のスタイルがリアリスティックに欠けていたのを、違和感のない歌劇の挿入の仕方で乗り越えた的な文言が氾濫しているように思う。決して間違ってはいないだろうし、そうなのかもしれないが、いまいち決定打にはなっていないようなモヤモヤ感もある。実際わたしも正解は分からないが、どうにかこうにか消えかけの糸口をすくい上げる思いでここに打ち込んでみようと思う。

 

この復活劇の決定打となった作品は、興行収入的に見れば2002年の「シカゴ」である。あきらかにこの作品のヒットをキッカケにして後続が続いていったのを、学生時代の僕も空気感で直に肌に触れている。

2000年には「ダンサー・イン・ザ・ダーク」というビョーク主演のミュージカル映画が上映されているが、この作品は70年代のジュークボックス映画の流れとも言えるし、この分野への実験/反抗的作品とも言える(なにせ、監督がラース・フォン・トリアーなのだし、、、)

 

さてこの「シカゴ」だが、主演のレニー・ゼルヴィガーとキャサリン・ゼタ=ジョーンズがどうしても「紳士は金髪がお好き」(1953)のマリリン・モンローとジェーン・ラッセルにしか見えない。というか相当意識しているのは最後のダンスシーンからも衣装からも明らかだ。マリリンはあまりシネマトジェニックではないと言ってきたが、「紳士は金髪がお好き」は僕の大好きな映画で、かなりのコスチュームプレイが行われている映画でもある。あいかわらずアップになった時の彼女の映画へのおさまりかたは良いとは言えないが、とにかくハワード・ホークスの演出もいいし、最高の映画なのだ。ちなみに当初はマリリンではなく、ベティ・グレイブルにオファーを出したのだが、あまりにも高額な出演料ゆえに、当時格安だったマリリンにオファーがいったというトリビアがる。

しかし、この「シカゴ」にコスチュームプレイがあったかというと、そんなにあったとはいえない。ちなみに僕が言うコスチュームプレイとは、コスチュームチェンジなどによって衣装がその映画にもたらす断絶、亀裂のような瞬間のことで、それは映画にとってとても重要なタームでもある。

唯一この映画にその断絶が垣間見えた瞬間があるとすれば、肩口にファーのついたコートをキャサリン・ゼタ=ジョーンズが法廷に着てきたシーンだったが、それ以外はイマイチだったように思う。衣装によって彼女たちの状況や心情を上手く表現しようという努力は、色使いや衣装の変化に見られるように気を配っているのは実に良くわかるのだが、それがあまりにも単純なステレオタイプのなぞり書きになってしまっていて、かつその単純さが徹底されていないがゆえの「素人の遊び」感へと繋がってしまっているのが残念なところでもある。

何度もこのブログ内で言及しているのだが、映画衣装にはある構造があって、それは「映画内設定の時代に忠実である視点、かつ製作時の視点によるデザイン」という二重構造のことである。

「シカゴ」の時代設定は1920年代の禁酒法の時代で、いわゆるジャズエイジである。スカートの丈が短くなり、人工化学繊維の登場によって、ソフィスティケーション(自然から遠くする)がよりナチュラルな魅力になっていく時代でもある。この映画の衣装は、そんな時代の雰囲気を再現しながら、ソング・グラブなどのアイテムや、フリンジの使い方などによって製作時の流行を反映させている。それに加え、先ほども言ったが「紳士は金髪がお好き」という映画も散りばめられている。

この映画においては、これらのアイテムがどうにもマリアージュせず、バラバラになったまま映画が空転しているように感じるのである。

しかし、この空転具合がどうにもゼロ年代の思想とマッチしてしまったように思う。ゼロ年代は大きな物語を失った時代でもある。大きな物語を消費するのではなく、小さな物語を消費する時代。人は物語に感情を高ぶらせるのではなく、キャラクターに熱量を投資する。

「シカゴ」という映画には、かつて60年代のミュージカル映画史で語ったフランス映画による、ハリウッド黄金期へのノスタルジーというものがない。映画史をなぞりながらも、そこにはある種の反抗や諦念はなく、ただただキャラクターを消費しているだけなのだ。もちろん、その空転具合に敏感だった人が多くいたとは思えないが、フィーリングがマッチしたのだと思う。

これが、ゼロ年代にミュージカル映画が立て続けに成功した一つの要因ではなかろうか。

 

ここまで長々とミュージカル映画史を語ってきた。2017年に公開された「ラ・ラ・ランド」がゼロ年代のミュージカル映画と違うのは、そこにノスタルジーがあるからなのだが、この映画についてはまた別で語りたいと思うので、この辺でミュージカル映画史については一旦打ち込みを終わらせていただこうかと思う。長々とお付き合いありがとうございました。

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