2010年代 映画について

私の男(2014)

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私の男(2014)

監督

熊切和嘉

キャスト

浅野忠信(腐野淳悟)、二階堂ふみ(腐野花)、モロ師岡(田岡)、河井青葉(大塩小町)

 

ブランド推奨の厚化粧をした女たち、香水の臭気、モードをまとったマネキン、モザイク的群衆。母に連れられて入ったデパートという名のモダンの街銀座プランタン。幼心に映されたそこには健全な憂鬱があり当時6歳だった私は女を知るということを知る前にとんでもない誘惑を知ってしまうというトラウマを抱えながら今日までノウノウと過ごしてきてしまったのです。閉じられた箱でありながら開かれた舞台でもあるというまさにモダンな不条理を孕んだこの建築物は、誰でもが逃げ込むことができ(逃走犯、避暑地)また誰でもが捜索することができ(警察官、ショッピング)、誰でもが物語に参加できる劇場という機能を産み落とす。

そして物語を孕んでしまった以上必然そこには終焉というノスタルジーがやってくるというのは言うまでもないことなのですが、このモダンの密林はそんなメランコリックな期待をいつでも裏切るというとても不謹慎な事態をつくり出す性悪な小悪魔以上に悪い性格を持ってしまっているのです。「あれ」はいつでも物語を唐突に頓挫させ、「あれ」が流れ始めるとこの密林は一様に姿を変え、誘惑、性、暴力、犯罪の匂いが立ちこめるやいなや、厚化粧女たちは鋭い目つきで私を睨み「ゴウコンガアルノヨボウヤ」と囁かれてでもいるような不安に襲われるのです。そして物語は突然に優しさの仮面を脱ぎ捨て素知らぬ振りをするという究極のsプレイにはしり、青は進め、赤は止まれ、黄色はその都度と刷り込まれたように、私にとって「蛍の光」は不謹慎と官能の代名詞になるというフェティシズムがここに一つのラングを作り出したわけです。

 

そしてこの映画はいかにもその不謹慎を持った映画でもあります。禁断の愛。殺人。天災。さらには冒頭死者が眠る体育館で、淳吾演ずる浅野忠信はタバコを吸い出す。不謹慎にも被災者を尻目にいくつものシーンでタバコを燻らす。そして、例の通り映画は不謹慎を愛し、食い物にしていく。起源なきこの映画の形式はこれまた例の通りに映画のヒロインを作り出す。ゲルツオークのハイモダンなスコアと共に35mm、8mm、デジタルと映像の歴史を辿りながら紡ぐ物語は突然にその時間を放棄する。いや、立ち所に物語が機能しなくなるというとんでもない事態が起る。おわかりの通り、「蛍の光」が流れ始めるのである。その瞬間、映画は映画であることを止め、物語は死に伏すのです(銀座のデパートが映し出されるという点で明らかに意図的にやっています)。

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