「ディストラクション・ベイビーズ」(2016)
監督
真利子哲也
キャスト
柳楽優弥(芦原泰良)、菅田将暉(北原裕也)、小松菜奈(那奈)、村上虹郎(芦原将太)、池松壮亮(三浦慎吾)
海域と陸地の間(8mmを愛したひと、言うまでもなく真利子監督も、にとってそれは現像液と暗室、現象と幻想の間)に立つ男/泰良/柳楽優弥がこちらを向き、フードを下ろした時、いやその瞬間、もしくは同時?に僕は彼が坊主であること知っていた、いや、知っていたのでなく知っていたことを知らされた気がしたのは言うまでもなく「真利子三銃騎」でのあの感動的なシーン(言うまでもないのだが言わせてもらえば、海から坊主頭の男たちが旗を持って浜へと上がってくるシーン)を僕が大切にしまっていたからであり、亡霊のように不意に再起したそのラストシーンに思わず涙を流しながらアプローズを、そう、アプローズをしたのだ。
(この映画が若者の孤独と暴力を描いた傑作だ)なんて言ってしまった盲者たちは映画の夜明けに遅刻し、(いや違う、これは暴力じゃなくて純粋たる映画的アクションだ!)と言い張った偽物の賢者達は映画の光に目をつむる。
映画は孤独/暴力を常に纏いながら生きるのだし、アクションとは暴力性を映画的という一言に責任転嫁させるための便利な現象ではない。
男/泰良/柳楽優弥は歩く
カメラは歩く男を追う
怪優北野武を思わせ、歩くという運動/アクションがさらに北野監督作DOLLSの夫婦が歩くシーンを共鳴させる
ある時、男/泰良/柳楽優弥と男/裕也/菅田将暉の服が入れ替わる、
それは理不尽であり無意味であり選択的である
そして、服が入れ替わった瞬間から、この映画の主導権は男/泰良/柳楽優弥から男/裕也/菅田将暉へと移動する
実際あんなに魅力的な歩き/アクションを見せていた男/泰良/柳楽優弥はその後、歩むのをやめるのである(実際にやめるのではなくて、画面上から排除される)
男は自由に入れ替わる
映画的空間を縦横無尽に駆け巡る
イメージの破裂と分裂と
サングラスをかけた男
光を遮断すれば
映画館にいるようだ
男は映画から
自由になったのだ