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「レザーフェイス」(2018) 堂々と失敗を宣布した映画に光るノスタルジア

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「レザーフェイス」(2018)

監督

ジュリアン・モーリー&アレクサンドル・バスティロ

キャスト

ステファン・ドロフ(ハル・ハートマン)、リリー・タイラー(ヴェルナ)、サム・ストライク(ジャクソン)、ヴァネッサ・グレース(リジー)

 

堂々と失敗を宣布した映画

 

親を打ち負かすのはそう容易いことではない。ティムバートンの「PLANET OF THE APE/猿の惑星」(2001)はよかったが、ターミネーター2以降はどうだったろうか。日本芸能史における二世タレントの位置づけが証明するように、金字塔のように打ち立てられた記念碑を打ち砕くことは、現実的(批評レベルにおいて)にもイメージ(三島由紀夫の金閣寺におけるイデアの神格化)のレベルにおいても困難な作業であることは容易に想像できる。

 

「悪魔のいけにえの前日譚」と高らかに、厳かに、でっかい文字で宣布された今作品であるが、どの作品にも見られるこのシリーズ特有の「神格化されたキャラクターによる物語の変奏」であることは鑑賞前からの基礎知識として入れておかなければならない。さもなければ、致死量に至るほどの流血をスクリーン内の演者共々流しかねないのだ。そもそも、「悪魔のいけにえ」のトビー・フーパーはこの映画に関わっていない(エグゼクティブ・プロデューサーでクレジットされているが、これはおそらく出資しているだけ。ちなみに、2017年に彼は死去している。心からのご冥福をお祈りいたします)。その金字塔である「悪魔のいけにえ」という名作は、物語を排除した方法論の中にも映画があったこと(ホラー映画というジャンルの明確な意味での誕生)を暴露してしまった作品なのだから(唐突に自らの手をナイフで切りつけるヒッチハイカー、レザーフェイス一家の無目的な殺人、女性たちが背中を露わにするというフェティシズム)、そもそも前日譚などというものは前提として機能するはずがないのだ。だからアルカイックなシリーズ物に習って見ようとしてはいけない。スターウォーズのように脈々とした物語の感動をそこに発見しようとする素直なお方は(これでシリーズ8作目となり、堂々とスターウォーズに並んだ!)、映画館で思う存分後悔していただきたい。

 

「「悪魔のいけにえ」って何〜?ちょー怖そーだから観に行こーよー」的なノリで鑑賞してしまおうとしている、映画産業がこよなく愛しそうで、彼らに狙いを定められているであろうオーディエンスにまず言いたいことは、彼氏/彼女とはぜひとも行かない方がいいよというありふれたアドバイスくらいだ(それがプレイの一種なら良いが、それではますます映画産業に愛されてしまうぞ!)。

そして、B級サブカル好きを公言する皆さん(表象的な意味でのB級という意味で使用している。つまり、ジャンキーなものは大体B級だと思っているお方)には、この映画は「なぜレザーフェイスが生まれたのか」などといった無意味な質問には一切答えようとしておらず、ただ単に狂った家族の中で育ったある男が保護施設に収容されてピュアな人間に育ったが、家族との再開によって再び悪魔に戻ってしまったという物語なのかどうかわからない話がそこにあるだけだと言いたい。

最後に、僕のように映画評論の専門家でもないがために正確に語るためのタームすら知らず、間違った映画の見方をしている同胞たちに伝えたいことは、「映画後半のあるシーンをきっかけに良くなるよ、この映画」という言葉だけだ。

 

蘇るノスタルジア

 

「悪魔のいけにえ」では、雑木林の中の追いかけっこ(もちろん悪魔と追われる女という伝統的な図式、悪→正義)を見事なカメラワークで捉えていた。もちろんこの映画にも、この追いかけっこは存在する。だがその構造は少し複雑になっており

①正義(警官)→正義(人質)+悪(レザーフェイス一家)

②正義(復讐心を持った暴力的な警察)(悪?)→正義(人質)+悪(レザーフェイス一家)

③悪(レザーフェイス一家)→正義(人質)

というふうに変奏されていく(最終的には伝統的な図式に収まる)。

公開後のインタビューでアレクサンドロ・バスティロとジュリアン・モーリーというフランス人デュオの監督は、「「悪魔のいけにえ」ユニバースの中ではまったく新しいストーリー構造を持った、自然主義的でブルータルで幻滅的なロードムービー」と本作のことを語っていたが、それがこの追いかけっこの①②における伝統的な追いかけっこの図式の変奏のことだと個人的には思っている。しかし、それがイマイチうまくいっていないと感じるのは、「シェルブールの雨傘」や、「ロシュフォールの恋人」のようなノスタルジー(「巴里のアメリカ人」に対するフランス側のアンサー)がなかったらではないだろうかとも思うこの頃。

 

しかし、この追いかけっこが③にさしかかろうとするとき、人質となった保護施設の看護婦であるリジー(ヴァネッサ・グレース)と心優しきハートマン(スティーヴン・ドーフ)が、死んだ豚?(おそらく)の中に隠れたあたりから、この映画は加速度的に魅力を増していく。もしそれに理由があるとしたら、中から彼/彼女らが必要以上にぬるぬるではないかと思わせるほどの血を纏いながら出てきたからだといっておきたい。そのぬるぬるした質感が、妙にノスタルジックに光の反射をスクリーンに拡散しているのだ。それ以降、約束されたように伝統的な図式へと戻った追いかけっこや、見事なライティングが映画に与える緊張感(緊張感の持続性と緩和のみがホラー映画を駆動させるというトビー・フーパーの発見)が映画を支配し始めると、その緊張感と反比例するように、「ようやくか」といった妙な安心感を覚え始めるのだ。

 

あとはネタバレにもなるので語ることはしないが、この映画はとにかく後半が良いとだけいっておこう。

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