ミュージカル映画史

ミュージカル映画史7 〜50年代のミュージカル映画とスタジオシステムの崩壊〜

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ミュージカル映画史7 〜50年代のミュージカル映画とスタジオシステムの崩壊〜

 

この時代に入り、ミュージカル映画はストーリー重視になったとよく言われる。が、私的にそれは少し違っているように感じていて、なぜならヘイズコード施工後、映画が映像のセンセーショナリズムから向かった先はストーリーだったはずで、ストーリー重視はすでに20年近く前から始まっているとうのは作品群を見ればわかるし、なんなら40年代初めからブロードウェイミュージカルを原作にした映画もどんどんでてきている。ではなぜそのように思われているのか。立派な本に執筆できるほどのライター諸君すら盲目的にしてしまうのか。それが映画をめぐる言説の画一化と、見えない力の強迫観念による安定志向への羨望なのかは知らないが、今一度ハリウッドスタジオシステムが第一に念頭に置いていたことを考えてみれば、なぜそのような盲目的な言説が大量生産されてしまっているのかがわかる。

 

それ(ハリウッドスタジオシステムの崩壊)が訪れる以前は、各製作会社に専属の俳優、監督、衣装などのスタッフがおり、彼らがそれぞれの会社独自の色を、独自の技術を駆使することで映画製作を行なってきた。そして、彼らが(とりわけMGM社においては)、看板女優をどうやって美しくスクリーン上に定着させるかということに躍起になっていた。そのシステムが崩壊してまず映画が直面した悲劇は、スターがいなくなってしまったことだった。ガルボにディードリッヒ、ジュディ・ガーランド、あんなに美しく映画に収まったスターはいなくなってしまった。彼女たちがいなくなり、製作陣は一つの映画のあり方を喪失してしまったのだ。結果、映画にはストーリーしか残らなくなった。それが、ストーリー重視などという幻想を生み出した正体だったのだ。

 

とはいえ、50年代にもスターと呼ばれる女優たちが存在していないこともない。むしろこっちの方が世間一般には受け入れられているかもしれない。それが、マリリン・モンローとオードリー・ヘップバーンだ。

 

脱ぐことでスターになったマリリンと、着ることでスターになったオードリー。彼女たちは確かにスターだし、僕も好きなのだが、ただどうしても写真屋の立場から言わせてもらえば、彼女たちはフォトジェニックな存在であって、シネマトジェニックな存在ではないように感じられる。

 

セックスシンボルとしてのマリリンとファッションアイコンとしてのオードリー。それはスクリーン上のスターとは違う。

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