2010年代 新作 映画について

「万引き家族」(2018)

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「万引き家族」(2018)

監督

是枝裕和

キャスト

リリー・フランキー(柴田治)、安藤サクラ(柴田信代)、松岡茉優(柴田亜紀)、樹木希林(柴田初江)、城桧史(柴田祥太)、佐々木みう(ゆり)

是枝監督の作品はすごく好きだ。そしてこの映画は「いい映画だろう、どうせ」という期待を見事に裏切ってくれるほどに良すぎた映画だった。だから話したいことはたくさんある。話したいことがたくさんあるということは、本題までの枕が長くなるということであって、それは読者の皆様に我慢していただきたい。

 

・「名付けられぬ何か」

 

「名付けは拡散だ」と言えるならば、それは世界の認識がどのようにして現代まで続けられてきたのかが明確になるし、それが思考方法の根本なのだということがわかる。

例えば世界で一番美しい物語である神話は、超自然現象を理解、認識するための方法であり、言わずもがなその理解不能な現象を神や怪物として名付けることで拡散してきた。そのことを理解すれば、科学と呪術が同居していた時代(アインシュタインすら呪術に関心があった)を前近代だと断言してしまうことはできない。それがあまりにも現代的だからである。それはコーパス時代の仕組みを理解すれば一目瞭然であって、簡単に言えば科学にしろ呪術にしろ、アナライズとカテゴライズを違うレベルで行なっているというだけの話である。

 

つまり、名付けることは世界を認識するための方法であり、拡散の要因でもあるのだが、世界には名付けられぬものがある。それが何かをここで言うことはできない。それこそが名付けられぬ何かだからだ。

 

私がこの名付けられぬ何かを初めて発見したような気になったのは(確信できないでいるのは、それがあるのかないのかがわかりようもないことだからだが)、落語だった。落語は生も死も否定しない。肯定すらしない。だから落語は馬鹿にわかるものではない。こんなに「笑い」から遠い芸術はないのだ。だから桂枝雀は仮面を被り、その仮面の圧力に耐えられずに自らを崩壊させたのではなかったか。そしてその苦しみを唯一理解していたのは立川談志ではなかったか。

 

こうやって落語の話を長々としたのは、是枝監督の作品が相変わらずに同じテーマを扱い、同じトーンで繰り返し生産され続けていることが、落語という古典からの影響であることがありありと分かるからだ。それは物語の構造からもわかるし、リリー・フランキーの語り方や仕草(あまりにも過ぎるくらいだが、妙に収まりが良い)からもわかる。

そして、これは私の個人的な経験論だが、「笑い」について考えてしまう人間は、どこか「性」に対しての気恥ずかしさのようなものがセットのように備わっている。どうにも是枝監督の作品の性描写にはそんな気恥ずかしさがある。だから、リリー・フランキーは劇中いつも性に関してどこか気恥ずかしさを持っていて、安藤サクラとのセックスシーンですら、彼女の背中に昼食で食べたネギがついているという些細なことでその気恥ずかしさを顕著に見せている。

 

落語は性を隠しながら生を描き、死を隠蔽しながら詞を紡ぐ。隠しきれなければ、桂枝雀のようになる。これは現実を隠蔽するためのものではない。生と死の間で宙づりにされている「名付けられぬ何か」を暴くためのものだ。

是枝作品も、このようにいつも何かの間で宙づりにされている。だから、ゆり(佐々木みゆ)を連れ帰った時に「金を要求しなきゃ誘拐じゃない」と言った治(リリー・フランキー)のセリフも、死んだ初江(樹木希林)を隠蔽するために家に埋めたことを警察に話す信代(安藤サクラ)が言った「捨てたんじゃない。捨てらてたものを私たちが拾ったのだ」というセリフも、「誘拐」という名付けを恐れるようにこの映画に響いている。

 

格差社会の底辺で、擬似的な家族関係を結ぶ6人の人間。日雇い労働者の夫の柴田治。人殺しという同罪を夫と共有する妻の柴田信代。虐待などで家族から見放された子供の柴田祥太とゆり。治と信代に年金を食いものにされている初江。本当の家族(初江の元夫が再婚した相手の家系)から逃げてきた亜紀(松岡茉優)。

彼らは初江の少ない年金に頼りながら、万引きを生業にして生計を立てている。

この家族は全員が偽装をしており、初江以外(初江は作中死んでしまうので、実質全員)がみんな別の名前を持ち、家族という構造を偽装することで社会の枠組みにそっと寄り添っている。「誘拐」「不正年金受給」「家族」「姓名」という名付けを恐れながら、彼らは偽装し続けいているのだ。

是枝監督の作品にはいつも、このような名付けようのないものが内包している。

 

 

安藤サクラ、光、死のシーケンス

 

 

ところでここ最近の是枝監督作品は撮影者がよく変わる。「海よりもまだ深く」の山崎裕。「そして父になる」「海街diary」の瀧本幹也。そして、今作の近藤龍人。どれも素晴らしい人才なのだが、是枝監督が山崎さんや瀧本さんを選ぶのは大体予想がつく。実際瀧本さん(彼はとても素晴らしい写真家であり、フィルムで撮るということに関しては日本でもピカイチの才能を持っている)が撮影者と知った過去の作品に関しては、なるほどなと納得がいった。トーンという安易な言葉でまとめるのは安易に過ぎるかもしれないが、それが蜷川実花的な映画の失敗という現象を引き起こさなかったのは、彼女の作品がトーンというタームからは程遠く、写真的な才能をシネマにぶちまけた結果映画が死んでしまったわけだが、瀧本さんのトーン(フィルム的な光の感受性)はその病理を発症することなく是枝さんの映画的感性によって瑞々しく宝石のように光っていた。そして今回の近藤龍人。「海炭市叙景」や「私の男」で見せた素晴らしい才能はこの映画でも死ぬことはなく、まず言えることは安藤サクラという女優の素晴らしさをこの映画は見事に描きってしまったということだ。それは彼女に当たる様々な質の光(夜道の街灯、夏の日差し、雲り日の薄光)が全て生き生きとしているということ。もちろん、それは安藤サクラという怪物のような女優の天賦の才でもあるのだが、それを大胆かつ繊細に撮り切った是枝組に感服した。季節が冬から夏に変わり、質の変わった光を彼女は見事に受け止めているのだが、その光を決して樹木希林に当てることはない。それは樹木希林にその才能がないからというわけでなく、物語上その必要性がないというのを、是枝監督がしっかり理解していたからだと言える。

それが顕著に現れるのは、家族全員で海にでかけるシーケンス。それまでの夏の刺すような光はそこにはなく、曇り日のどんよりとした光がスクリーン一面にこびりついている。それまで夏の日差しに当たってこなかった樹木希林が唯一外出したそこには、生/性を共起させるような光はない。この瞬間、「ああ、次のシーンで樹木希林は死ぬのか」と誰もが知ったはずだし、実際に彼女は死ぬ。当然物語の筋から見て、彼女が死ぬことは誰にだってはっきりと分かっていたことだが、彼女の死までのシーケンスをこの光の演出によって見事に描ききっている。

 

言いたいことはまだまだあるが、あまりにも長くなりそうなのでここまでにして、静かなアプローズをこの作品に贈りながら締めたいと思う。

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