「アニーよ銃をとれ」(1950)
監督
ジョージ・シドニー
キャスト
ベティ・ハットン(アニー・オークレイ)、ハワード・キール(フランク・バトラー)、ルイス・カルハーン(バッファロー・ビル)
映画は女と銃なんだから、アニーが銃をとってもいいでしょう。でもこのアニー(ベティ・ハットン)、あまりにも天真爛漫に銃を扱うもんだから、しかもそれが天才的であまりにも馴染んじゃっているもんだから、しかもしかもそれがライフル銃なんだから、グリフィスは「え?」なんて思っているかもしれない。グリフィスだって、アンナ・カリーナやジーナ・ローランスくらいなら予想できたに違いない。でもベティ・ハットンまでは予想できただろうか。おそらく、こんな野性味溢れる「女」役を演じることができたのは、この時期のベティ・ハットンだけだったのかもしれない(ジュディ・ガーランドではダメだ)。だけに、「男がいると上がってしまって、まともに銃が撃てない」というアニーの乙女心は、フランク(ハワード・キール)のせいで銃撃戦に支障が出るという伏線回収を一切することなく宙づりにされる。
つまり、「男がいると上がってしまって、まともに銃が撃てない」アニーを描くことができなかったのではないか?
なのにもかかわらず、物語の主旋律はアニーとフランク恋模様なのだ。だからアニーは物語後半で華麗な衣装を身につけるようになり、女としての魅力を備えていく。ように見える。しかし、相変わらず銃を手懐けているその様は可憐な「女」からは程遠い野性味溢れた「女」と実に親和的なままでいる。そのため、華麗なはずの衣装がどこか浮世離れして見えてしまうのだ。
つまり僕が言いたいのは、「ベティ・ハットン+銃」が「女+銃」という方程式とイコールにならなかったせいで、「女」という部分が映画から欠落し、物語を頓挫させ続けてしまったのではないかということだ。
だから僕は、願わくばジュディ・ガーランドで撮影されたパートの全てを一度見てみたいと思っているのだ。