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「アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル」(2018) なぜ彼女の衣装はダサいのか

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「アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル」(2018)

 

監督

クレイグ・ガレスピー

キャスト

マーゴット・ロビー(トーニャ・ハーティング)、セバスチャン・スタン(ジェフ・ギルーリー)、アリソン・ジャニー(ラヴォナ)、マッケナ・グレイス(トーニャの子供時代)、ボヤナ・ノヴァコヴィッチ(トディ・ティーマン)

 

元オリンピックフィギュアスケーターのトーニャ・ハーディングを題材にした実話もの。「ナンシー・ケリガン襲撃事件」の真実をあらゆる証言者の視点から描いた今作品は、各者がカメラに向かって証言しているシーンと、例えばマーゴット・ロビー演じるトーニャが夫のジェフ(セバスチャン・スタン)を痛快に殴り飛ばしたあと、「これは夫の証言だからね」とカメラに向かってセリフを吐くという常套句にすらなった映画文法の破り方(ただし一歩間違えれば良質なコメディが笑えない素人のお遊戯になりかねない方法)で表現している。ちなみにこの映画は、見事にその手法がはまっている。

 

この映画の主役であるトーニャ(マーゴット・ロビー)も、夫のジェフ(セバスチャン・スタン)も、母親のラヴォナ(アリソン・ジャニー)も、みんながその怒りを暴力に変え、殴り合ったかと思えばトーニャとジェフはセックスに流れ込む。オレゴン州のポートランドで生まれたトーニャは貧乏で、母親の強烈な暴力教育で育ってきた。例えばこの設定を日本に置き換えてみたのだが、例えば「共食い」(青山真治監督、田中慎弥原作)のような田舎、セックス、暴力、というある種の寂寥感を伴った作品を想起させることは容易いが、それをポップにしてしまうアメリカという存在の不可思議さに驚かずにはいられない。

 

僕はこの映画を見てしばらく、妙な違和感を感じていたのだが、どうやらそれがこの映画をポップにしている何かと少々リンクしているような気がしているのだ。

 

映画衣装が孕んだ二重構造

 

森の中の田舎の貧乏人として育ったトーニャは、生活のために父親(後にトーニャを置いて家を出ていく)と共に狩に出たりするのだが、映画の中でもトーニャが銃でウサギを狩るシーンが出てきたり、狩った動物の毛皮の服を着たりしている。撮り用によっては結構毒っ気のあるシーンなのだが、なぜかその毛皮を着たマッケナ・グレイス(トーニャの子供時代演じた女優)に全然同情を感じない。

さらに映画冒頭から妙にトーニャの衣装がダサい。映画衣装にはある特徴があって、それは「物語設定の時代の忠実な再現と、現実(現在)の視点でのデザインという二重構造」(雨に唄えばのミニスカートは、史実には忠実ではないが、当時の雰囲気を見事に表現している)のことなのだが、映画衣装の成功は、それがその時代の特徴を再現していながら、いつの時代にも古く見えないというゴールなきゴールの果てにある。だとするとこのダサさは、時代の忠実な再現に固執した失敗なのだろうか?確かに、彼女のスケート衣装は史実に忠実だった。これは僕がYouTubeで確認済みで、実況まで忠実に再現していた。さらにいえば、母親やコーチと離れた実際のトーニャは当時自分で衣装を作っていて、同僚からはダサいと思われていたという話もある。しかし、どうにもそれだけでは説明がつかないのだ。いくらなんでもダサすぎる。映画として映えるかどうかでいうと、全然映えていない。そして気づいたのだが、トーニャ以外の人物が着ている衣装がみんなすぎるぐらいにキマっているのだ。つまり、トーニャ一人だけがこの映画のオールドファッションを一手に引き受けてしまっている。そしていつも派手な衣装を着ていたラヴォナが仕事着でウェイトレスのコスチュームを纏ったシーンが現れた時、「ああああ」と気づいたのである。これは、わざとやっている。史実に忠実でありながら、そのダサさをわざと残しているのだ。

 

この映画の衣装デザイナーであるジェニファー・ジョンソンは、彼女のインタヴューを記事を見るかぎり相当にリサーチしている様がわかる。ちなみにトーニャの関係者に話を聞いて回るのは、事件に関わりたくないという人ばかりで大変苦労したらしい。さらに彼女は、雑誌アメリカン・ヴォーグの中で「綿密なリサーチをしながらも、90年代のチープな流行には陥らないように注意した」と語っているように、映画衣装の二重構造には意識をしっかりと払っている。

 

ラヴォナの鈍い赤色のウェイトレスのコスチュームがスクリーンに映し出された時、それが極端なアイロニーにならなかったのは(彼女自身かなり気を使っていたらしい)、それまでのラヴォナの服からの様変わりが、キャラクター自身の心情をすら見事に投影していたからである。そう、ラヴォナにとって鈍い赤色のウェイトレスのコスチュームはアンコンフォータブルなのだ。普段着ている派手な衣装で飾られた表象の彼女の見栄は、ウェイトレスという仕事が自分には似合っていないという深層心理をその表情(演技)で隠蔽しているのだが、鈍い赤色のコスチュームがそれを許そうとしない。その葛藤が実に素晴らしい。そう、ジェニファー・ジョンソンがこの映画にもたらしたものは、いかにキャラクター心理と、時間的な層を持った無意識に忠実な衣装をデザインしたかということにある。

トーニャの衣装がダサかったのは、彼女が本当にお金がなかったという史実に忠実だからという理由だけではない。映画の後半、トーニャがスケーターとして成功してジェフとの関係も修復することで心が満たされたとき、タートルネックのセーターにジャケットというこれまでとは違うシックな衣装を身に纏う。これもラヴォナと同様、時間的な層を持った無意識を忠実に再現している。そして何より感動的なのは、隣にいるジェフもタートルネックのセーターを着ているのだ。そこには言葉では言い尽くせないほどのトーニャの心の変化が衣装に見事に投影されている。この感動的な衣装のギャップを意識させるために、トーニャの衣装をダサく(もちろん一歩間違えれば滑稽になりうる)していたのだ。

 

長々と語ってしまったが、この映画のもう一つの魅力は、スケーティングシーンだ。どうやって撮影したのかわからないが、マーゴット・ロビーが完璧に演技しているのだ。彼女がトリプルアクセルを飛んだときに一瞬スローになるのだが、伊藤みどりと浅田真央ファンの僕は一瞬ドキッとしたのだった(彼女たちのジャンプ中の顔が醜いと言っているのではないのであしからず)。そしてその美しい顔を見たとき、「あ、映画だった」という満足感に満たされたのは僕だけなのだろうか。

 

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