1930年代 映画について

「巨星ジーグフェルド」(1936)

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「巨星ジーグフェルド」(1936)MGM

監督

ロバート・Z・レナード

キャスト

ウィリアム・パウエル(フローレンツ・ジークフェルド)、マーナ・ロイ(ビリー・バーク)、ルイーゼ・ライナー(アンナ・ヘルド)、フランク・モーガン(ビリングス)

 

崇高な哲学者たちが血眼になって探しながら、どうやら見つからないのではないかという答えをこねくり回し続けている時代なのだから、もはや真実なんてものはないのかもしれない。そうなると、世の中には嘘つきしかいなくなる。人は嘘の二択を迫られながら生き、嘘の選択を生き続ける。世界には、嘘が下手な人間と、嘘が上手な人間がいるだけだ。

上手く嘘を乗りこなす男はダンディで、僕はそのダンディズムにすらずっと騙されてきた哀れな男だ。(そのことで、女性に対して何度も痛い目にあった。)なぜなら、このダンディズムは映画の中でしか許されていない特権なのだから。

 

ジーグフェルドを演じたウィリアム・パウエルは、映画が作り上げたダンディズムの極致だ。一人目の妻であるルイーゼ・ライナーも、二人目の妻であるマーナ・ロイも、ウィリアム・パウエルのダンディズムな嘘に騙される。(そして、その騙され方がまさに映画的でもある)

しかも、この繰り返される戯言の中心には、いつも衣装という名の飾り物が据え置かれている。ウィリアム・パウエルの取る手段は、女性がその裸体の森を隠すために用いられる虚飾を非難することから始まる。それが嘘かどうかを問うのはいただけない。なぜなら彼は、ただダンディズムであるだけなのだ。一度は怒ってみながらも、「あれ、でもこんなダンディズムはいないわ」と彼女達は真実を知ったと勘違いして彼に惹かれていく(モテる男はこういった卑劣な手段を使ってますよ、お嬢さん!)。

 

衣装が中心にあるというのはそれだけのことではない。マネキンと化した集団的踊り子「フォリーズ」の、20万ドルを越すセット中で繰り広げられる物語のない大お遊戯のフィナーレで使うための衣装を製作した衣装屋にも、商売の天才である彼はその素晴らしい出来栄えに対して平気で嘘をつき、悪評を下す。ついに無料で衣装を得た彼は、もちろんボソッと呟く。「素晴らしい衣装じゃないか」

 

確かにこの映画の衣装たちは素晴らしい。しかし、それが莫大なる費用のもとに制作されたからではなく、エイドリアンという天才によってなされた仕事だからというだけのことでもない。それは、衣装という嘘を中心に進んでいた物語の中で、不意に真実味を持った瞬間が訪れるからである。

例えば、ルイーゼ・ライナーが舞台を終え、楽屋に戻り、舞台のために拵えられた素晴らしい黒のドレスを衝立の中で着替えるシーン。まずは彼女の姿が映し出され、衝立に入り、映像はウィリアム・パウエルからの手紙を読む端女に切り替わる。すぐにまたルイーゼ・ライナーに映像が切り替わると、彼女は美しいネグリジェを見にまとっている。この数秒の劇的なシーンに、映画の素晴らしさが凝縮されている。そして、彼女がウィリアム・パウエルのもとへと駆け出していったとき、そこにあった螺旋階段が、映画のためだけに拵えられたものなのだと気がつく。彼女が着ていたネグリジェの裾が私たちの想像よりも丈長で、その丈長の裾が螺旋階段を鮮やかに這っていくのだ。この美しい上下運動は、紛れもなく嘘ではない真実の美しさである。

250人もの仕立て屋が、この壮大な嘘の物語のために力を注いだ。その一瞬の美しいシーンは、彼らがつこうと努力した嘘の結晶なのだ。

 

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