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「15時17分、パリ行き」(2018) 映画史を逆行する男、イーストウッド

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「15時17分、パリ行き」(2018)

監督

クリント・イーストウッド

キャスト

スペンサー・ストーン(本人役)、アンソニー・サドラー(本人役)、アレク・スカラトス(本人役)

 

なんだろうかこのイライラは。決して嫌なイライラじゃない。なぜなら、イーストウッドの映画を見たいと思って映画館へと足を運んだし、「あー、いつものイーストウッドがいる」と安心もしたからだ。だからこのイライラは、こんなにもハイペースでイーストウッドの映画にお金を消費してしまっている現実を考えてしまった自分の愚かな感情だ。

 

2016年「ハドソン川の奇跡」2014年「アメリカン・スナイパー」「ジャージー・ボーイズ」2011年「J・エドガー」2009年「インビクタス/負けざる者たち」2008年「チェンジリング」。これはこの10年でイーストウッドが撮った実話ものの映画たちだ。この間に撮られたヒューマンドラマ映画といえば、2010年の「ヒア・アフター」2008年の「グラン・トリノ」だけだ。

この10年で、しかも77歳〜87歳という年齢の中で9本の映画を撮っていることにも驚愕するが、この映画を合わせると7本もの映画が実話もの。なぜ、イーストウッドはこんなにも実話ものばかりを撮るのか。

 

イーストウッドといえば、とてつもないほどの早撮りだ(「許されざる者」(1992)における不恰好なガンファイトへのコンプレックスなのか!?)。基本的に1テイクか2テイクしか撮らないし、それが原因でレオナルド・ディカプリオと喧嘩したという逸話すらある。俳優陣が何度演技したってより良いものができるわけではないとすら言い張るイーストウッド。とにかく早く、大量に生産する。そこにはハリウッド黄金期に類似する部分がある。

ハリウッド黄金期時代はスタジオシステムという形式が取られ、監督、俳優、技術はそれぞれの映画会社に所属していた。それは安価に長編映画を大量生産するための術でもあったのだ。イーストウッドといえば照明をほとんど使わず、自然光だけで撮影してしまう(カメラを動かしやすいという特徴があるし、それがイーストウッドのめちゃくちゃなカット割りにもつながっている)という特徴があるのだが、これは一見ハリウッド黄金期の女優を美しく見せるために作り込まれた見事なセットと照明という技術に反するように聞こえるが、そもそもハリウッドという地を映画が選んだのは、その気候と光が映画に適していたからで、ハリウッドスタジオシステムに親和的だ。もちろん、この映画でもそうだが、優秀な照明係がスタッフとしているのが前提なのだが、イーストウッドはどんどんと映画史を逆行していってるように見える。

 

映画史を逆行する男、イーストウッドの手法

 

と、長々と前口上を打ち込みながら脱線してきたが、本題へと戻る。というか、本題なんてものはそもそも存在しないのだが、まずこの映画、主役を演じる三人がプロフェッショナルではなく素人三人組。しかも三人とも本人役で出演している。タリス銃乱射事件を題材にしているこの映画の物語は、スペンサー・ストーン、アンソニー・サドラー、アレク・スカラトスという三人組の欧州旅行中、アムステルダムからパリに乗り込んだタリスという特急列車の中でテロリストに遭遇するという話。実話なわけで、どこまで話そうがネタバレもクソもないのだが、まー結末は映画館でどうぞ。

 

さて、ここまで映画史を逆行してきたイーストウッドは、ついに主役に素人を使った。いや、それどころかなるべく事件の当事者を集め、警察官や医者まで本人役で素人が登場している。もはやイーストウッドにとって演技するのは誰でも良いのかもしれない(もちろん、当時の映像を使うために本人でなくてはならないし、そこに意味があるという人もいると思うが、絶対にイーストウッドは誰でも良いと思っているはずである)。なぜならあんなカット割りをできる人間は、アメリカ大陸の隅々まで探そうが、欧州各国のフィルムアーカイブを網羅しようが、どこにもいないからだ。この映画でもそうだ。なんでそんなに執拗にカットを割るのか。アクションを起こしている人間の前を撮って後ろも撮って横もとって全部使う。バンッバンッバンッてな感じでカットが変わる。とにかく、あれは誰にも真似ができない。めちゃくちゃなのに筋が通っている。どこかで聞いたことあるような話だ。つまり、イーストウッドとゴダールだけは真似をしてはダメなのだ。僕が言いたいことは、イーストウッドはとにかく撮りたいだけなのだ。それが何であれ、撮りたいのだ。だから、テーマも実話を選ぶ。ストーリーに意味を持たせないために。映画は物語だ。そこからストーリーを抜けば、映画は抜け殻になる。ゼロの地点に行き着いた映画に残されたのは、どのように撮られているかという技術論だけだ。だからイーストウッドの映画には中毒性がある。またイーストウッドの映画を見たいと思う。個性とかそういった類の言葉でまとめたくはない。これは、イーストウッドの作家主義なのだ。

 

だから、素人を使ったからといってイーストウッドの映画が変わることはない。実際、言われなければ彼らが素人かどうかわからないだろう。それはイーストウッドの演出の凄さなんかではない。僕たちはスクリーンを見ている。イーストウッドの作った映画の枠を見ている。だから、そこに中身は関係ない。いや、むしろ素人を使うことでより完璧なゼロ地点へと映画が向かっている。だからこの映画は実験映画ではないし、イーストウッドのアーカイブの中で変わった映画でもない。まさに、イーストウッドらしい映画なのだ。そしてイーストウッドの素晴らしさは、そうやって撮られた映像の中に隠れた素晴らしいシーンを見つけ出す嗅覚だろう。だから、主人公たちが旅行中に出会う女性たちの官能性は、埋もれずにこの映画に堂々と映し出される。

 

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